2018年10月11日木曜日

2018年9月第6回陰陽道史研究の会記録・参加記

第6回陰陽道史研究の会

日時:2018年9月1日(土)   10:30-17:30  
場所:京都女子大学 J校舎
 
テーマ「安倍晴明像の再生産と変容」 

10:40-11:40 細井浩志氏「古代の晴明像の発生」
11:40-12:40 休憩 
12:40-13:40 赤澤春彦氏「中世の晴明像の再生産と変容」
13:45-14:45 梅田千尋氏「近世の晴明像の再生産と変容」   
14:50-15:50 小池淳一 氏「近代の晴明像の再生産と変容」
16:00ー17:15 質疑応答・討論
17:15-17:30 連絡事項など

参加者 31名

■参加記

第6回「陰陽道史研究の会」参加レポート  木下琢啓
 2018年(平成30年)9月1日、京都女子大学にて第6回「陰陽道史研究の会」が開かれた。今回は「安倍晴明像の再生産と変容」というテーマで、歴史上の実在人物である安倍晴明が、如何にして新しい“人格”と“プロフィール”を付加・獲得し、伝説化していったかについて、細井浩志氏(古代)、赤澤春彦氏(中世)、梅田千尋氏(近世)・小池淳一(民俗学)の各氏によって紐解かれていった。開会・閉会の挨拶は斎藤英喜氏が、各発表後と全発表後に設けられた質疑応答部分は林淳氏が司会を務められた。
 
 まず細井浩志氏は「古代の晴明像の発生―伝説の陰陽師の実態と転換期の陰陽道―」と題し、平安中期に実在した安倍晴明その人が如何なる出自・業績を持つ人物であったか、そして晴明自身の行動自体にも後の「伝説化」へとつながっていく一因があったのではないかという事を、各種の記録史料から読み解いた。
 陰陽師としても遅咲きであった晴明が何故陰陽道の中で台頭し得たか。それは師家である賀茂氏とのつながりを最大限に利用した事、また晴明自身による業績喧伝活動、そして長命であったこと等が関係しているのではないかという事であった。
 発表後の質疑応答では晴明が大成させたといわれている泰山府君祭と晴明との関係、太一式盤が安置されていたという仁寿殿で、果たして陰陽師は実際に太一式占を行ったのか、という質問が出され、議論がなされた。
 
 次いで「中世における安倍晴明像の再生産」と題し、赤澤春彦氏が登壇した。
 12~13世紀に集中して創造された晴明説話は、当初は超人的な能力を持つという事を強調するような内容ではなかったが、やがて仏教の影響をうけて次第に超人的な晴明像へと変貌していった事、また晴明五代後の子孫である安倍泰親が積極的に晴明の名を利用して、安倍氏が正当な陰陽道を受け継ぐ氏族であるという宣伝材料に使っていた事を史料より読み解いた。
 発表後の質疑応答では、晴明が陰陽道の代表格として取り上げられるようになったタイミングについての質問や、泰山府君祭の意義変化に対する発表者の意見などが求められた。

 近世担当の梅田千尋氏は「近世の晴明像の再生産と変容」と題し、近世陰陽道組織による晴明像の形成についての研究発表となった。
 近世、陰陽道支配権を獲得した安倍氏土御門家は、おおよそ50年ごとに「晴明霊社祭」を斎行するようになった。遺された記録を見ると、同家はこの祭を利用して元晴明邸宅地取得の試行、晴明所縁の地設定、さらに参拝者に霊宝を公開するなどの興行的要素を持ち、対外的宣伝活動の場に利用していた事がわかるという。そしてなによりも、配下の陰陽師に対しては祭の費用徴収や、講を組織しての土御門殿への参拝を指示する事で、本所である土御門家と配下の陰陽師からなる陰陽道組織の関係確認と連携強化の場でもあったという事であった。
 発表後は主に感想が述べられ、晴明霊社祭開催に渋川春海の尽力があった事や、「福寿講」寄進の井戸が未だ土御門家菩提寺・梅林寺に遺されているという情報が提供された。

 最後に、小池淳一氏が民俗学の視点から「晴明像の再生産」の考察を発表した。「近代」だけにとどまらず、「現代」における晴明像の再生産をも包括した内容の発表であった。
 氏はまず「セーマン、セーメー」「ドーマン」を最初に取り上げ、何故その呪符が晴明を連想させるものとなったか、そして呪力の喧伝にはいかなる歴史があったか。「晴明」という語が持つ力の淵源と流布については、更なる研究が積み重ねられなければならないと課題を提起した。
 次に晴明と狐との関わりについて。晴明伝説の中では狐よりも少年期の晴明が主人公である事に注目。少年晴明の冒険譚は現代における晴明像が「美貌の青年」という見た目になっている根源にではないか、と指摘した。
 締めくくりに、現代の晴明像として夢枕獏『陰陽師』シリーズを例示した。同作は中世以降に流布した晴明伝説とは異なり、神聖性も史実性もない。しかし、「若さ」と「逸脱」という自由なイメージで描かれた晴明像は現代社会に見事にフィットし、理想的な晴明像として受け入れられた。我々は「現代の晴明伝説」創造の現場にいる目撃者なのかもしれない、という事で話を終えられた。
 質疑応答では、現代における晴明ブームは「世相への不安」を癒す存在として求められたのではないかといった意見が出された。

 最後に各発表の後、発表者間での質疑応答があり、安倍晴明は本来賀茂保憲の弟子であったにもかかわらず、何故説話では保憲の父・忠行の弟子として登場するのかといった質問や、安倍泰親に関する質問、密教修法が陰陽道祭祀に与えた影響と時代変遷に伴う変化などを巡って質疑応答・意見交換が行われ、本会は終了となった。

 「陰陽道史研究の会」も今回で第6回を迎えた。会への参加者も、陰陽道の研究者だけではなく、古典文学や災害史・芸能史研究者など他分野の研究者も聴講に来られるようになり、斯道研究分野もようやく広い認識が得られるようになった事を実感した。
 また会の内容や質疑応答も、回を追うごとに洗練され、厚みを増して来た。会の今後の発展を期待する。

2018年4月2日月曜日

2018年3月第5回陰陽道史研究の会記録・参加記

日時:2018年3月17日(土)  
場所:大東文化会館 開催

テーマ「古代陰陽道の実践と環境」
11:00-12:30 宮崎真由「古代における陰陽道祭祀成立の背景」
13:30-15:00 中村航太郎「古代陰陽師の「相地」考――その職能と展開――」
15:10-16:40 山下克明「古代の出土資料と陰陽道の周辺 ―呪符木簡・墨書土器をめぐって―」
16:50-17:45 討論・告知など

参加者26名

■参加記
第5回「陰陽道史研究の会」参加レポート  山口 啄実

2018年3月17日、大東文化会館において第五回陰陽道史研究の会が開催された。
今回は「古代陰陽道の実践と環境」をテーマに、宮崎真由・中村航太郎・山下克明各氏による研究報告が行われた。
まず宮崎報告は「古代における陰陽道祭祀成立の背景」と題し、先行研究では未だ検討の余地がある、陰陽道祭祀の各祭祀の成立~展開について、特徴的な祭祀の事例を検討したものである。とりわけ社会的/政治的背景と陰陽寮官人の活動を関連付けて祭祀成立の過程を検討し、祭祀の違いと成立期に、陰陽寮官人や為政者の関与があるのではと想定した。本論では、貞観年間初期に登場する鬼気(きけ)祭について、関連する四角四堺(しかくしきょう)祭と共に検討しており、結論で成立背景に藤原良房・春澄善縄・滋岳川人らの関与があったこと、名称は異なるが四角四堺祭と性質が同じであることを明らかにした。あわせて奈良~平安期の陰陽寮官人の補任状況を検討し、博士経験者が陰陽頭になる貞観年間初期から陰陽道祭祀の初見が多く確認できることも指摘しており、陰陽道祭祀成立の画期を貞観年間初期に見出している。今後の展望や課題として、後冷泉天皇期に賀安両家が陰陽頭を独占したことで陰陽道祭祀が再び変化した可能性、国家祭祀と個人祈禱の線引きの再確認、政治史など別分野からの検討の必要性が述べられた。
報告後の質疑応答では、まず先行研究における陰陽道祭祀の分類について、祭神不明の祭祀や目的が変化する祭祀をどう分類するかという質問や、通時代的に祭祀の性格を追うべきとの指摘がされた。また鬼気祭の典拠となった「董仲舒(とうちゅうじょ)祭法」について、董仲舒に仮託した雑記書の可能性が指摘された。ほかに八世紀から九世紀中ごろの陰陽寮官人が謀反に関与した事件が律令官制全体に及ぼした影響や、その時期と筆者が注目した九世紀中ごろから十一世紀中ごろの時期との関係についてなどの質問がなされた。
続いて中村氏は「古代陰陽師の「相地(そうち)」考―その職能と展開―」と題し、陰陽道職能を形成する知識がいかに受容・伝習・修得されたのか、その実践においてどう扱われたか、という問題意識のもと、相地という職掌の役割について検討した。相地とは、都城や山陵の建造に際して土地の吉凶を占うもので、都城制の導入は律令国家にとって必須であり、都城の正当性を思想的に保証し権威づける役割もあった。まさにこの点において、陰陽師の相地という職掌への要請は大きかった。ただし、平城京や平安京造営時点での相地に関わる「四神相応」について、従来四神と地形を関連付ける山川道澤説で説明されてきたが、都城造営期は四方を正確に測定し、それに基づいて四方が整っている状態を指す用語であった。十三世紀初頭ごろに山川道澤説が確立・普及しており、時代が下り知識が変容しながら普及している様子が分かる。ではそもそも、相地の知識はどのように日本に伝来したのか。報告者は陰陽道職能が「南朝―朝鮮半島―日本」という「南朝文化圏」ルートを経由して伝播・受容されたことから相地も同様のルートであったと指摘する。その源流ともいえる中国の相地について、敦煌写本の記述をもとに、宅経類に記される相宅相墓術に注目することでさらなる分析が見込めることを指摘した。さらに敦煌写本に記述がある「陰陽師」と日本の陰陽師との関連など、中国思想と陰陽道の関係を典籍の伝来・展開など具体的な考証をもとに再考する必要性を述べた。
質疑応答では、中国の周礼などに、都城を設けるとき四方をあわせる記述があることから、相地とは建設・建築を実際にする時に行うものであることが指摘され、都城建設前に相地を行う意味はあるのか、という重要な指摘がなされた。
三人目の山下氏は「古代の出土資料と陰陽道の周辺―呪符木簡・墨書土器をめぐって―」と題し、陰陽道そのものでなく、古代の生活や信仰を伝える呪符木簡と墨書土器を扱った。呪符は陰陽道祭祀でも用いられるが、すでに七世紀前半からみられるもので、陰陽寮に先行して畿内から地方へと伝播していた。いわば陰陽道を相対化する視点としてこれらを取り上げている。まず古代中国では、鬼神の害から身を守るため、呪符を建物の四隅に貼り付けた。呪符には北斗七星などの星神や鬼神を鎮圧する山や日、弓などが記され、時代が下ると道教の三清などが記された。古代日本に伝来すると中国文化の影響を受けた多様な呪符が登場するが、なかには道蔵経典と異なる中国の民間信仰由来の呪符や独自の星宿信仰(紫微宮など)に基づく木簡も展開した。具体的には、禳災を祈願する天罡木簡には、平安後期以降、物忌・牛頭天王・蘇民将来が加えられるなど、諸要素が重層化していった。
質疑応答では、千葉県袖ケ浦市西原遺跡出土の九世紀後半の呪符木簡に関連し、古代東国に置かれた陰陽師の意義が問われたほか、「天中節」の呪符や赤舌日など、中国と日本で異なる風習や、呪符と仏教・修験の関連などが質問された。
全報告終了後の討論では、陰陽道祭祀(呪術)について議論された。山下氏は五行家の鎮祭(律令に限定されない)が奈良時代以降継承された可能性や、陰陽道成立のメルクマールに呪術があったこと、呪術という視点から中近世まで見通すことが出来ることを指摘した。他の指摘では、祭神から見た場合、仏教との関わりで独自性が高まること、偽経が国家に影響を与え、陰陽寮に限定されず社会的に陰陽道が受容されることが述べられた。また相地について、朝鮮の史書に事例があるか、呪符木簡について朝鮮と日本で共通性があるため、朝鮮経由で知の伝播がなされたことにより注目すべきこと、などが指摘された。あわせて、ベトナムの事例も紹介され、東アジア/東南アジア全体への中国思想の伝播を考えるべきとの指摘がなされた。
全体を通して、今回の研究会では古代中国の思想や民間信仰と、古代日本における祭祀・相地・呪術の独自展開という二点が注目されていたと感じられた。ただし、相地に関する指摘を踏まえると、源流となった古代中国や、伝播途上の朝鮮半島の段階で、すでに思想・技術の変容がなされていた可能性も考えられる。今後は史書や典籍、出土遺物などから、これらの変化をさらに細かく検討する必要があるだろう。