2018年4月2日月曜日

2018年3月第5回陰陽道史研究の会記録・参加記

日時:2018年3月17日(土)  
場所:大東文化会館 開催

テーマ「古代陰陽道の実践と環境」
11:00-12:30 宮崎真由「古代における陰陽道祭祀成立の背景」
13:30-15:00 中村航太郎「古代陰陽師の「相地」考――その職能と展開――」
15:10-16:40 山下克明「古代の出土資料と陰陽道の周辺 ―呪符木簡・墨書土器をめぐって―」
16:50-17:45 討論・告知など

参加者26名

■参加記
第5回「陰陽道史研究の会」参加レポート  山口 啄実

2018年3月17日、大東文化会館において第五回陰陽道史研究の会が開催された。
今回は「古代陰陽道の実践と環境」をテーマに、宮崎真由・中村航太郎・山下克明各氏による研究報告が行われた。
まず宮崎報告は「古代における陰陽道祭祀成立の背景」と題し、先行研究では未だ検討の余地がある、陰陽道祭祀の各祭祀の成立~展開について、特徴的な祭祀の事例を検討したものである。とりわけ社会的/政治的背景と陰陽寮官人の活動を関連付けて祭祀成立の過程を検討し、祭祀の違いと成立期に、陰陽寮官人や為政者の関与があるのではと想定した。本論では、貞観年間初期に登場する鬼気(きけ)祭について、関連する四角四堺(しかくしきょう)祭と共に検討しており、結論で成立背景に藤原良房・春澄善縄・滋岳川人らの関与があったこと、名称は異なるが四角四堺祭と性質が同じであることを明らかにした。あわせて奈良~平安期の陰陽寮官人の補任状況を検討し、博士経験者が陰陽頭になる貞観年間初期から陰陽道祭祀の初見が多く確認できることも指摘しており、陰陽道祭祀成立の画期を貞観年間初期に見出している。今後の展望や課題として、後冷泉天皇期に賀安両家が陰陽頭を独占したことで陰陽道祭祀が再び変化した可能性、国家祭祀と個人祈禱の線引きの再確認、政治史など別分野からの検討の必要性が述べられた。
報告後の質疑応答では、まず先行研究における陰陽道祭祀の分類について、祭神不明の祭祀や目的が変化する祭祀をどう分類するかという質問や、通時代的に祭祀の性格を追うべきとの指摘がされた。また鬼気祭の典拠となった「董仲舒(とうちゅうじょ)祭法」について、董仲舒に仮託した雑記書の可能性が指摘された。ほかに八世紀から九世紀中ごろの陰陽寮官人が謀反に関与した事件が律令官制全体に及ぼした影響や、その時期と筆者が注目した九世紀中ごろから十一世紀中ごろの時期との関係についてなどの質問がなされた。
続いて中村氏は「古代陰陽師の「相地(そうち)」考―その職能と展開―」と題し、陰陽道職能を形成する知識がいかに受容・伝習・修得されたのか、その実践においてどう扱われたか、という問題意識のもと、相地という職掌の役割について検討した。相地とは、都城や山陵の建造に際して土地の吉凶を占うもので、都城制の導入は律令国家にとって必須であり、都城の正当性を思想的に保証し権威づける役割もあった。まさにこの点において、陰陽師の相地という職掌への要請は大きかった。ただし、平城京や平安京造営時点での相地に関わる「四神相応」について、従来四神と地形を関連付ける山川道澤説で説明されてきたが、都城造営期は四方を正確に測定し、それに基づいて四方が整っている状態を指す用語であった。十三世紀初頭ごろに山川道澤説が確立・普及しており、時代が下り知識が変容しながら普及している様子が分かる。ではそもそも、相地の知識はどのように日本に伝来したのか。報告者は陰陽道職能が「南朝―朝鮮半島―日本」という「南朝文化圏」ルートを経由して伝播・受容されたことから相地も同様のルートであったと指摘する。その源流ともいえる中国の相地について、敦煌写本の記述をもとに、宅経類に記される相宅相墓術に注目することでさらなる分析が見込めることを指摘した。さらに敦煌写本に記述がある「陰陽師」と日本の陰陽師との関連など、中国思想と陰陽道の関係を典籍の伝来・展開など具体的な考証をもとに再考する必要性を述べた。
質疑応答では、中国の周礼などに、都城を設けるとき四方をあわせる記述があることから、相地とは建設・建築を実際にする時に行うものであることが指摘され、都城建設前に相地を行う意味はあるのか、という重要な指摘がなされた。
三人目の山下氏は「古代の出土資料と陰陽道の周辺―呪符木簡・墨書土器をめぐって―」と題し、陰陽道そのものでなく、古代の生活や信仰を伝える呪符木簡と墨書土器を扱った。呪符は陰陽道祭祀でも用いられるが、すでに七世紀前半からみられるもので、陰陽寮に先行して畿内から地方へと伝播していた。いわば陰陽道を相対化する視点としてこれらを取り上げている。まず古代中国では、鬼神の害から身を守るため、呪符を建物の四隅に貼り付けた。呪符には北斗七星などの星神や鬼神を鎮圧する山や日、弓などが記され、時代が下ると道教の三清などが記された。古代日本に伝来すると中国文化の影響を受けた多様な呪符が登場するが、なかには道蔵経典と異なる中国の民間信仰由来の呪符や独自の星宿信仰(紫微宮など)に基づく木簡も展開した。具体的には、禳災を祈願する天罡木簡には、平安後期以降、物忌・牛頭天王・蘇民将来が加えられるなど、諸要素が重層化していった。
質疑応答では、千葉県袖ケ浦市西原遺跡出土の九世紀後半の呪符木簡に関連し、古代東国に置かれた陰陽師の意義が問われたほか、「天中節」の呪符や赤舌日など、中国と日本で異なる風習や、呪符と仏教・修験の関連などが質問された。
全報告終了後の討論では、陰陽道祭祀(呪術)について議論された。山下氏は五行家の鎮祭(律令に限定されない)が奈良時代以降継承された可能性や、陰陽道成立のメルクマールに呪術があったこと、呪術という視点から中近世まで見通すことが出来ることを指摘した。他の指摘では、祭神から見た場合、仏教との関わりで独自性が高まること、偽経が国家に影響を与え、陰陽寮に限定されず社会的に陰陽道が受容されることが述べられた。また相地について、朝鮮の史書に事例があるか、呪符木簡について朝鮮と日本で共通性があるため、朝鮮経由で知の伝播がなされたことにより注目すべきこと、などが指摘された。あわせて、ベトナムの事例も紹介され、東アジア/東南アジア全体への中国思想の伝播を考えるべきとの指摘がなされた。
全体を通して、今回の研究会では古代中国の思想や民間信仰と、古代日本における祭祀・相地・呪術の独自展開という二点が注目されていたと感じられた。ただし、相地に関する指摘を踏まえると、源流となった古代中国や、伝播途上の朝鮮半島の段階で、すでに思想・技術の変容がなされていた可能性も考えられる。今後は史書や典籍、出土遺物などから、これらの変化をさらに細かく検討する必要があるだろう。

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